申請領域の研究の必要性
素粒子物理学は,物質の究極の構成要素である素粒子の探究とその反応メカニズムの解明を目指す学問である。二十世紀後半の素粒子物理学は,
「標準理論(The Standard Model)」と呼ばれる
素粒子反応の基本理論の確立を最大の目標として発展してきた。
標準理論は, (1)ゲージ普遍性の原理,(2)電弱相互作用の自発的対称性の破れによる質量の生成,
(3)素粒子(クォークとレプトン)の三世代の階層構造という三つの柱からなっている。
このうち,第一のゲージ原理は,物質の構成要素であるクォークとレプトンというフェルミオン
間の相互作用がゲージボゾンと呼ばれるスピン1のボゾンの交換によって起こることを明らかに
した。
その正しさは,弱い相互作用のゲージボゾン W+,W-,Z0 と強い相互作用のゲージボゾン(グルーオン)の
加速器実験による発見に代表される数々の実験事実によって実証されている。
一方,上記第三,フェルミオンの階層構造(世代)が,自然界の粒子と反粒子のアンバランスに
重要な関わりがあるとする「小林・益川理論」については,文部省高エネルギー加速器研究機構 (KEK) のBファクトリーでその
検証が着々と進んでいる(文献1)。
標準理論について未だ確証が得られていないのは,フェルミオンやボゾンがなぜ質量を持っているのかを説明する
自発的対称性の破れの(ヒッグズ機構とも呼ばれる)メカニズムである。
「ヒッグス粒子の真空凝縮によってゲージボゾン,クォーク,レプトンに質量が与えられる」という標準理論の質量起源に対する
予言は未だ実験室で確認されていない。
本領域代表者(金)および計画研究A2代表者(相原)は,
米国フェルミ国立研究所テバトロン陽子・反陽子衝突型加速器を
用いたトップクォークの発見およびその後の研究にたずさわってきた(文献2,3)。
トップクォークは,6種のクォークのうち最も重いものであり,
その質量 175GeV/c2 は金原子1個に相当するほど
大きい。
なぜ,このように重いクォークが存在するのか,この巨大な質量に意味があるのかないのか,
あるとすればその理由は何なのかについて,
我々素粒子物理学者は強い興味を抱いてきた。
質量の起源が,
標準理論の言う自発的対称性の破れのメカニズムにあるのか,それとも
この理論の枠組みにおさまらない新理論にあるのか,これは
今後の素粒子物理学の方向を決める最も重要な課題である。
標準理論においてはクォークやレプトンの質量は
実験で決定されるべきパラメータである。
標準理論は,これらフェルミオンの質量パラメータとして少なくとも9個,
ニュートリノに質量があれば12個のパラメータを持っていることになる
(表1参照)。
これらのパラメータをアプリオリに決定する原理すなわち標準理論よりいっそう基礎的な
物理が存在するのかどうか,あるとすればその新しい基礎理論の手がかりを得ることが,現代素粒子物理学の急務である。
表1. クォークとレプトンの周期率表
フレーバー(クォーク) |
質量(MeV/c2) |
電荷(e) |
フレーバー(レプトン) |
質量(MeV/c2) |
電荷(e) |
u | 5 | +2/3 |
νe | 0 ? | 0 |
d | 8 | -1/3 |
e | 0.511 | -1 |
c | 1,500 | +2/3 |
νμ | 0 ? | 0 |
s | 160 | -1/3 |
μ | 105.7 | -1 |
t | 175,000 | +2/3 |
ντ | 0 ? | 0 |
b | 4,250 | -1/3 |
τ | 1,777 | -1 |
この新しい物理の可能性として最も注目されかつ期待されている理論が,
フェルミオンとボゾンの間の対称性にもとづく超対称性理論である。
超対称性理論によるとすべての粒子にはスピン統計性の異なるパートナーがある。
スピン1/2のフェルミオンであるクォークやレプトンはスピン0のスカラー粒子と
対になっている。
この超対称性にもとづく大統一理論,すなわち「素粒子に働く強い力,電磁力,そして弱い力の
三種類の力が超高エネルギーでは統一されて一つになる」という理論を仮定するとヒッグス粒子と呼ばれる
未知の粒子の質量が150GeV/c2以下でなければならないことが導かれる。
ヒッグス粒子は,質量起源が自発的対称性の破れにあるならば,必ず存在しなくてはいけない
スカラー粒子である。標準理論だけでは,ヒッグス粒子の質量について,何の制限も与えることはできないが,超対称性理論と組み合わせると,その質量に制限を加えることができるのである。
このヒッグス粒子を発見できれば,質量起源が自発的対称性の破れにあることを証明することになる。
さらに,その質量が150GeV/c2程度であれば,標準理論の先にあるより基礎的な理論が超対称性理論である可能性が
きわめて高くなる。
本領域研究期間中,このヒッグス粒子を直接探査できる加速器は,フェルミ国立研究所 (FNAL) のテバトロン加速器しかない。
本領域計画研究A1班の研究者グループは,テバトロンにおいてトップ(t)クォークを発見し,
さらにbクォークとcクォークの束縛状態である
Bc中間子を発見する(文献4)など,陽子・反陽子衝突実験における新粒子発見に確固たる実績がある。
この計画研究によるテバトロンでの実験が,150GeV/c2程度という比較的軽いヒッグス粒子
を発見できる可能性はきわめて高い。
ヒッグス粒子の直接探査が,この領域の第一の目的である。
超対称性理論など標準理論の先にある新しい物理を検知するもう一つの有効な手段は,
K中間子,B中間子およびタウレプトン崩壊の精密測定である。
これらの粒子の崩壊は,新しい物理の効果に敏感であることが理論的に示されている。
KEKのBファクトリーに代表される「粒子ファクトリ−」は,
これらの中間子やレプトンを大量に発生することができる。
これらの粒子の崩壊現象を精密に測定し,標準理論の予測値と厳密に比較することにより,いままでに検出されていなかった「標準理論からのずれ」を発見することが可能である。
特に,K中間子およびB中間子におけるCP非保存現象は,自発的対称性の破れから
生ずる「小林・益川理論」が予言する現象であり,B中間子におけるCP非保存とK中間子
におけるCP非保存(文献5)の比較は,新しい物理を発見するのに最も有効な手段の一つである。
具体的には,K中間子ファクトリーを用いて,
小林益川行列の中でCPの破れを決めるIm(Vtd)と、|Vtd|の大きさを、
約5%の精度で測定する(文献6)。
標準理論の予測やB中間子の結果と異なる値が得られれば、小林・益川理論以外のCPの破れの存在を意味する。
さらに,超対称性理論は,タウレプトンの崩壊現象の中にフレーバー量子数を保存しない崩壊がわずかながら
含まれていると予言する。
BファクトリーはB中間子の工場であると同時にタウレプトンの工場でもあり,
タウレプトンの稀な崩壊現象を探すのに最も適した実験環境を提供する。
本領域の第二の目的は,ファクトリー加速器を用いた徹底した精密実験によって
「標準理論からのずれ」を発見し,新しい物理の手がかりを得ることである。
今後5年間(すなわち本領域研究期間)に,ヒッグス粒子の直接探査,標準理論の精密検証そして
超対称性物理の探索など質量起源の解明に関する実験のできる加速器施設は,
フェルミ国立研究所のテバトロン,KEKのBファクトリーおよび米国スタンフォード大のBファクトリー,
そして米国フェルミ国立研究所と同ブルックヘブン国立研究所のKファクトリー
をおいて他にはない。
我が国の実験素粒子物理学研究者が,素粒子物理さらには基礎物理学全体に多大な貢献ができる,まさに
絶好の機会といえる。
本特定領域研究の第三の目的は,次世代加速器とくに,我が国のハドロン加速器であるJHF加速器,
CERN(ヨーロッパ原子核連合)で
2005年の完成を目指している超高エネルギー陽子陽子衝突型加速器(LHC)および我が国素粒子物理学会の
次期主力計画として検討が進められている電子陽電子線形衝突型加速器(JLC)での物理の理論的研究
および測定器の開発研究をそれぞれ理論計画研究と公募研究で勢力的に進めることにある。
本領域発足により,
次世代の素粒子物理学を担う若い研究者が,将来の加速器を使った実験に対し積極的に提案をし,
かつその開発研究を行うことを可能にする環境を整えることができる。
本領域はトップクォークの発見,BファクトリーとKファクトリーにおける小林・益川理論の検証,
B中間子およびK中間子崩壊の
超精密測定など,現代素粒子物理学の骨格をなす研究にたずさわってきた研究者が,その実績に
基づいて現代物理学の最も基礎的かつ興味深いテーマ
「物質に質量があるのはなぜか,物質の質量を決めている物理法則は何か」を現行の加速器を最大限
利用して解明することを目的としている。
領域の学術的水準はきわめて高く,国外においても高く評価されている。
現在われわれが手にしているトップファクトリー,Bファクトリー,Kファクトリーを総合的に利用し
互いに協力して研究を進めれば,次なるブレイクスルー (Breakthrough) を引き起こすことができると確信している。
すでに世界の素粒子物理学をリードしつつある我が国のこの分野が,
本領域の発足によって21世紀の物理を切り拓く原動力となることができる。
さらに本領域の研究は,素粒子物理学と密接な関係にある宇宙物理学にもおおきな影響を与える。
150億年前に,ビッグバンから始まった宇宙の進化の過程を理解するのに,粒子の質量起源の解明は
必須である。
宇宙が,なぜ今の宇宙でありえたのか。フェルミオンの質量パラメータがなぜ現在の数値になっているのか。
この問題の答えは,素粒子物理学のさらなる進展なしにはあり得ない。
本領域の発足は,この答えを出すために必要である。
したがって,本領域は領域公募要領「対象となる領域の特性」の条件
(1),(2)および(4)を十分に満たす。
本特定領域研究は、
5つの実験研究項目 と1つの理論研究項目を主要な柱とする。
その具体的内容は、
本特定領域は,現在稼働中の粒子ファクトリーの
産み出す物理成果のさらなる飛躍をめざすものであるとともに,
大型プロジェクトを支える大学研究機関の技量の一層の発展をはかることを目標としている。
わが国の素粒子物理学分野の健全な発展は、国内外の共同利用研究所のみならず教育・研究機関である
大学グループの充実とそこでの将来を担う有能なる若手研究者の
育成を抜きにしては語れない。
筑波大学,東京大学,名古屋大学,大阪大学,京都大学,東北大学など参加大学は、これまで、
高エネルギー物理学研究所のBファクトリーやプロトンシンクロトロン(Kファクトリー)さらに
日米科学協力事業を通して,新粒子の発見やCP非保存の研究を遂行してきた。
本領域の研究グループは,我が国のファクトリー物理研究の中核を成す研究者によって
構成されており,
本研究課題を遂行するに十分なる実力・実績を有するものである。
本領域の選定は、これらの基幹大学グループが、
質量起源の解明にせまり,超対称性物理研究の成果を確実にあげることを可能とし、
研究の一層の充実をもたらすものである。
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